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れな

真理を知りたいと願うなら。

「真理を知りたい」「真実を知りたい」そう願う人がいることでしょう。

それは、簡単なように思えて意外と難しいです。

雲のように柔軟な心がないと、あなたは真理を知ることはできないでしょう。



真理を知るためには、こだわりを手放さなければならない。

あなたが真理を知りたいなら、こだわりを手放さなければなりません。

「こうであるはずだ」

「こうでないはずだ」

といった思い込み、つまりこだわりがあると、ある真理があなたのこだわりに反するとき、あなたは目をそらしてしまうでしょう。そのウェブサイトを閉じてしまうでしょう。真理はそこに書いてあるのに、あなたはそれを知ることができなくなってしまうのです。

「こだわりなんて別にないよ」と、あなたは思うでしょうか。しかし、意外と皆、いくつものこだわりを持っているものです。


たとえば、こんな思いはありませんか?

「マクロビオティックが最高の食事だ」

「アロマテラピーが最高のセラピーだ」

「フラワーレメディーは必ず人を癒す」

「キリスト教こそが最高の宗教だ」

「運命の人は必ず私を迎えに来てくれるはずだ」

「豊かさを追うことは悪いことでないはずだ」

「このパワーストーンブレスで絶対恋愛運が上がるはずだ」

こうしたこだわりを、誰もが持っているものです。真理を知りたいなら、こうしたこだわりを手放さなければなりません。何にも肩入れしない、柔軟で客観的な心を持っていないと、真理を直視することはできないのです。


世の中には無数の情報があります。相反する内容のことを、それぞれが断言しています。そのため、何が真理であるか、何が真実であるかは容易にはわかりません。

そのため多くの人は、結局のところ、自分にとって都合の良い論を真実だと思い込むようにしています。その論を話す人は「これは正しい」と断定するでしょうが、しかし、本当に正しいとは限らないのです。



具体例を話しましょう。私のことです。

私は昔、キリスト教寄りの人間でした。キリスト教が好きでした。

数年前、私はミクシィの中で、スピリチュアルなことをソリッドに語る人をたまたま見つけました。

「ヒプノセラピーにトラウマを癒す効果は無い」

「パワーストーンは、実は開運などできない」

「霊視で視るものがすべて真実なわけじゃない」

それを見て私は興奮しました。「そうじゃないかな」と思っていたことがいくつも書いてあり、それを理詰めで解説しているからです。感動しました。

しかし、次の瞬間私は凍り付いてしまいました。

「キリスト教は矛盾だらけだ」と書いてあったからです。

キリスト教が好きだった私は、手のひらを返したようにむかむかしてしまいました。「この人の言うことは間違っているわ!」と思いました。

それまで、「この人は理詰めで解説するから信頼できる」と言っていたのに、キリスト教に言及されたとたんに、私は彼が不審に思えてしまったのです。

私は珍しく、「お言葉ですが、」と反論のコメントをしてしまいました。

彼はそれに対して、冷静に理論的に反論するのでした。

私はそれを見て、いや、ろくに読みもしないで、またむかむかしてしまいました。

ウェブページを閉じようとしたそのときです。彼のコメントの最後に、こう書いてあったのです。

「でも僕は、イエスキリストという人間を世界で一番尊敬してるけどね!」

私はビックリしてしまいました。

キリスト教に対してあれだけ厳しいことを言っていたのに、その祖であるイエスキリストについては「世界で一番尊敬する」と言っているのです。

私はうれしいと思いましたし、意味がわからずに混乱もしました。

私は、「キリスト教=イエス」だと思っていたからです。

しかし彼は、キリスト教というものとイエスという人を切り離して考えているようでした。

「そんな考え方があったんだ!」私は目からうろこが落ちました。

私は、彼のその柔軟な思考に感銘を受けました。

そして、やはり彼のコラムを読み漁ることにしたのです。


私はそうして、たくさんの真理を知ることができました。

もし私が、「キリスト教には矛盾がある」という文面にむかむかして目を伏せていたなら、たくさんの真理を知ることはできなかったのです。


彼は、オーラソーマが好きだと言いながらオーラソーマの腐敗についてよく語りました。

彼はレイキが好きだと言いながら、レイキの問題点についてよく語りました。

彼は、素晴らしいものを素晴らしいと言いますが、しかし何にも肩入れはしないのです。様々なものをリスペクトしますが、しかし何も崇拝しないようでした。

彼は、ただ真理が知りたいようでした。真実が知りたいのです。


私はこうして、「何にも肩入れしてはいけない」ということを理解しました。

私にアセンテッドマスターや大天使が語り掛けるようになったのは、そのときです。

「モナドレベルの情報を授けるに値する」と、アセンテッドマスターや大天使は思ったようでした。


そう。「こだわりを手放さなければいけない」ことの理由がここにもあります。

霊的存在たちは色々な情報を教えてくれますが、高度な霊的真理に関しては、語る相手を選びます。

彼らは、「こうであるはずだ」「こうであるはずがない」と意固地になっている人間には、霊的真理は語らないのです。

霊的真理は科学や理屈で解明できないものも多いので、やはり霊的存在に教わる必要性があります。しかし、「何にもこだわっていない」という柔軟な思考を持っていないと、霊的存在は真理を教えてはくれないのです。

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