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れな

スピリチュアリストはお金を貰っても良いの?だめなの?

日本のスピリチュアル業界には、うさんくさい商売人が多いです。

その反面、なんらかのたしかなスキルを持っていながらも、人から対価をもらうことをためらってしまうスピリチュアリストも多いことでしょう。

はたして、スピリチュアリストはお金を貰っても良いのでしょうか?良くないのでしょうか?


この問いに一言で答えるのは難しいです。



「お金を貰うのは心苦しいな」と感じる人は、対価をもらって行うと良い。

「お金を貰うのは心苦しいな」と感じている人の心理は、かなり的を射ていると言えます。

スピリチュアリズムというのは本来、奉仕の重要性を語っています。対価があるから施すのではなく、奉仕の気持ちで施す。そのような人々が増えていくことによって、社会は成熟していくのですよということを、宗教もスピリチュアリズムも説いています。

そうした精神的な成長に興味を持ってスピリチュアリズムを探求する人にとって、何らかのスキルの獲得は、「いかに他者に奉仕するか?」という自問への答えだったはずです。

そのため、そのスキルを得たあとは、自分のためでなく、他者のためにそのスキルを発揮したいと感じます。それなのに対価が発生することに、違和感や後ろめたさを感じてしまうわけですね。

しかし、あなたは、ある程度の対価を得ながら施すのが良いだろうと言えます。それには幾つかの理由があります。



今の日本ではまだ、奉仕は循環しない・・・。

1つは、「現代日本の場合、奉仕が循環しないから」です。

奉仕の重要性を語るスピリチュアリズムは、その奉仕によって、お金の介入しない暮らしを実現することを目的としています。このためには、物々交換にみられる「ギブ&テイク」ではまだ不充分なのです。物々交換の場合、交換する事象の価値が対等であるかがはっきりしないので、「ギブ&テイク」を基調とする場合、そこにどうしても不和が生じてしまいます。

しかしこれが、「ギブ&テイク」ではなく「奉仕」を基調としている場合、「自分の差し出す分がちょっとくらい多くてもいいや、損してもいいや」という寛大な心理があるので、出し惜しみなくモノやサービスが循環します。ただし、他の人も同じように「自分の差し出す分がちょっとくらい多くてもいいや、損してもいいや」と考えていれば、です。

しかし、そのように考えている人は、現代日本にはほとんどいないのです。


すると、あなたがスピリチュアルなセッションなどを無償で奉仕しても、あなたは差し出す一方で、あなたの元にはほとんど何も循環してきません。このような状態が続くと、あなたは衣食住が枯渇し、生きることすら困難になってしまいます。

一つ救いなのは、スピリチュアリストには女性が多いことです。彼女らは配偶者を持っており、つまり旦那さんが生計を守ってくれるので、仮りに彼女らが差し出す一方になっていても、飢えることはまぬがれます。

とはいえ、共働きの奨励が進む現代において、生活費を食いつぶしながら無償奉仕をしていると、旦那さんがそれを不服に感じ始めるケースも多いです。「そんなことをやってないでパートに出てお金を稼いできたら?」「趣味の活動をするならその費用は自分で稼いできなよ」「他人に施す前に俺や家族のケアをしっかりやれよ」といった具合です。

するとやはり、あなた一人だけが奉仕の精神をもっていても、破たんしてきてしまうのが現代日本の実情なのです。



あなたの無償奉仕に甘えてむさぼり続ける人が大勢いる・・・

2つ目は、「人の甘えを助長してしまうから」です。

あなたが無償で何かのセッションを提供すると宣伝したなら、それに飛びついてくる人は少なくないでしょう。あなたはそうした人々に施しをして、最初はとても充実した気分になるでしょう。でも、いつまでもは続かないかもしれません。

なぜなら、あなたの無償提供に飛びつく人々は、あちこちで無償提供の物やサービスばかりに飛びつくのです。彼らは自分での努力はせず、ハイエナのように無償のものばかりを漁ります。それでいて自分は、何をするにしても他者に対価を請求します。対価のある行為しかしないのです。

彼らのこのような、ハイエナのような振る舞いを許してしまうと、社会全体がハイエナのような人々ばかりになってしまう懸念があります。あなたは、彼らのためにやったつもりでも、それは彼らのためにはなっていないのです。一時的な癒しや快楽や喜びは提供できたでしょうが、しかし彼らを怠惰にしてしまうのです。


こうした理由から、無償でモノやサービスを提供することは、むやみにやるべきことは言えないのです。

たとえば、相場よりも少し安い価格で提供したり、学生さんやシングルマザーなどの貧困者・社会的弱者には無償で提供するなど、相手や状況を選んで奉仕する、という考え方も良いかもしれません。



霊的真理を発信したいなら、無償奉仕でやらないと矛盾が生じてしまう。

次に、情報を扱う場合についての話をします。

あなたの発信するスピリチュアルな情報が、霊的真理の核心を突くものであればあるほど、お金は取らずにボランティアで発信したほうが良いです。


というのも、スピリチュアルな情報の核心的なものは、どうしても奉仕社会を推奨するような話になるからです。「対価を求めずに奉仕できる人間になりましょう」と説いている本人が、そのワークショップでがっぽりと稼いでいるなら、聴衆はしらけてしまいます。「この人は偽善を言うだけで、本当に奉仕する気はないんだな」と感じるのです。

さらには、「奉仕の人になってアセンションをしよう」などということを神々しく発信してお金や名声を集めようとする偽善的なスピリチュアリストを増やしてしまうのです。



古代の宗教がお金をとらなかったのはそのため。

だから、古代の宗教は、お金を取らなかったのです。

宗教は奉仕を啓蒙するものだったので、それがものやサービスに対価を請求していては矛盾してしまうので、「奉仕に徹せられる人」が宗教啓蒙者になったのです。


とはいえ古代においては、こうした宗教啓蒙者が「対価は要りません」と言っても、寄付やお礼をする良心ある人々が大勢いました。それにより、対価を求めない宗教啓蒙者も、衣食住を確保することができたのです。

しかし、文明が発達するにつれて大衆のモラルは下降し、宗教啓蒙者や奉仕的な哲学者、無私のカウンセラーなどに対して寄付やお礼をする人々はほとんどいなくなりました。

それでも、スピリチュアルな真理を高い精度で発信しようと思うなら、ボランティア精神をもってやらなければ示しがつかないので、ボランティアでやらざるをえないのです。そうでないと追従者が出てこないでしょう。



目的が富なら、やめたほうがよい。

対して、そもそも商業活動の目的が富であるなら、あなたはスピリチュアルでお金をとらないほうがよいです。

「お金持ちになりたい」という大規模な野望の場合だけでなく、「お小遣いがほしい」といった小規模な金銭欲であっても、です。

あなたのそのスピリチュアル活動が、お金を得るためだというのは、すぐに見透かされます。すると、精神性の高いスピリチュアリストはあなたに近寄らないでしょう。

そして、欲深いスピリチュアル商売人や怠惰なスピリチュアル好き、つまり精神性の低い人ばかりがあなたのそばに集まってきます。

あなたの人間関係は低質なものになり、不幸になるでしょう。



自己成長や霊的真理にまるで興味がないなら、スピリチュアルな商売を楽しむのもよいのかもしれません。それで集まってくる精神性の低いスピリチュアリストたちを見ても、あなたは違和感や不快感を感じないでしょう。

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