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  • れな

おみくじって本当に当たるの?

初もうでに付きもののおみくじ。普段スピリチュアルなことを好まない人も、占星術をあてにしていない人も、おみくじを引く人は多いのではないでしょうか。それは、「自社仏閣が提供しているものだから信ぴょう性があるのだろう」と考えるからだろうと思います。はたして、おみくじというのは本当に信ぴょう性があるのでしょうか?当たるのでしょうか?


結論から言えば、答えは「NO」です。

おみくじというのは、まったくでたらめです。これは、伊勢神宮や清水寺、出雲大社、成田山神社、明治神宮などの大きくて有名な寺社のものであっても、です。神社のものもお寺のものも、両方が、です。



おみくじはランダムで引いているにすぎない。おみくじはサギ。

人がおみくじを引くとき、不思議な力が働いて最適なものが手に吸い付いたりはしません。これは、霊感の強いスピリチュアリストであろうが、具現化の強いレイキヒーラーであろうが、です。

おみくじを引いたときに手にする番号およびそこに書かれたメッセージは、まったくもってランダムです。偶然、その番号を引いたにすぎません。

すると当然、「引っ越し運が良い」とか「恋愛運が悪い」などというメッセージもでたらめであり、まったく当たりはしないのです。

実は、おみくじというのは、朝のニュース番組の1分間の星占いと同じで、およそ「気休め」の効果しかありません。

おみくじというのは、サギなのです。おみくじを販売している寺社仏閣は、どれもがサギです。


凶のおみくじを木にくくりつけなくても、運気が下がったりはしないのでご安心を。

もちろん、吉凶の悪いおみくじを神社の木にくくりつけないと運気が下がるとか、くくりつけることで不運が免れられるというようなことも、ありません。でたらめです。迷信というものですね。



おみくじを売るのは、儲かるから。わざと吉運を増やしたりする。

おみくじを売っている寺社仏閣の神職者は、おみくじがでたらめであり当たらないことを、もちろん知っています。知ったうえで販売しています。なぜかといえば、儲かるからです。

ですから、寺社仏閣の中には、わざと吉運のくじを増やして、参拝客の顔色を窺おうとするいやしいところが少なくありません。良いおみくじを引くと、参拝客は「縁起が良いな」と考え、翌年もリピートしてくれるからです。



本当に誠実で小さな寺社は、おみくじを売らない。

本当に誠実な神職者は、おみくじを売ったりしません。そんな寺社仏閣があるのかとあなたは驚くかもしれませんが、住宅街にある小さなお寺や神社には、おみくじを売らないところもあります。



絵馬にもお守りにも護符にも、何の効果も無い!

寺社仏閣の悪徳商売は、おみくじだけではありません。

絵馬に願望を書いても、それで叶いやすくなったりはしませんし、お守りを買って持ったところで、安産になったり交通事故回避が出来たりはしません。護符を買っても、低級霊から身を守れたりはしません。

その他、破魔矢やダルマなど、開運グッズや縁起物と言われるものはどれ一つ、神秘的な効果を持っていたりはしません。



厄払いにも効果なし。そもそも厄年という概念も迷信にすぎない。

さらに言えば、厄払いにも何の効果もありません。そもそも「厄年」という概念自体がでたらめの迷信で、厄年に特に不幸が起こりやすいということは無いのです。



初もうでにくりだしても運気は上がらない。邪気祓いも罪祓いも起こらない。

もちろん、初もうでに繰り出すことで運気がアップすることはありませんし、邪気や罪が洗い清められたりはしません。初もうでという習慣も、寺社仏閣がお金儲けのために考え出したでたらめな願掛けイベントです。

むしろ、初もうでに繰り出すことで、真冬の寒い中、大変な混雑の中を歩かなければならず、「嫌なことが増えた」とすら言えます。



初もうでに行かなくてもバチが当たったりはしないのでご安心を。

初もうでに行かなくても別にバチがあたったりはしないので、別にいかなくてかまいません。もし、親戚の目がうるさいなら、3が日が過ぎて静かになった頃に、近場の寺社にカタチだけ赴けばよいです。お参りなどしなくても、敷地のイスに腰かけてキレイな空気を吸って帰ってきましょう。



除夜の鐘にも何の効果も無し。煩悩が洗い清められたりはしない。

つまりは、大晦日の除夜の鐘にも何の効果もありません。あれで大衆の煩悩が洗い清められたりはしませんし、直接赴いて鐘を突かせてもらうことによって煩悩の清めが進んだりもしません。



遠い昔は、神社もお寺も開運サギ商売などしてはいなかった。

各地の寺社仏閣というのは、大衆の不安心理や願掛け心理に漬け込んで、でたらめな開運商法をしているのです。

遠い昔は、神社もお寺もこのような開運商法はしていませんでした。純粋に、霊性道徳の説法の場所であり、人生相談の場所であり、座禅瞑想のための場所でした。

江戸時代に入り、神道の教義が書き換えられるようになってから、神道は急速に商売宗教に陥り、そして仏教のお寺もそれに追従してしまったのです。

もちろん、悪徳かどうかは寺社仏閣それぞれに個人差があり、誠実に営んでいる神職者もいます。誠実に営んでいるというのはつまり、開運グッズなど売らないということです。



寺社には天照大神も七福神もいない。

ちなみに、寺社仏閣は「天照大神を祀っている」などと、それぞれに氏神を掲げていますが、それもでたらめです。

でたらめというのはつまり、その寺社仏閣に行けば天照大神が居るわけではなく、あなたがどこにいても、天照大神に何かメッセージを伝えたければ、声に出したり紙に書いたりすれば伝わります。あなたの守護天使が伝えてくれます。



天照大神も七福神も、願いを叶えてくれたりはしない。

とはいえ、天照大神などの人格神に願掛けをしたところで、彼らがそれを叶えてくれたりはしません。七福神とて同様です。



子宝神社に行っても子供は授からない。

また、「子宝に恵まれる神社」などと掲げている寺社仏閣も多いですが、それもでたらめです。はるばるそのような寺社まで行って祈りを捧げても、お百度参りをしても、お賽銭を1万円投げても、それで願いが叶ったりはしません。

お百度参りという荒行も、残念ながら何の効果もないのです。



寺社仏閣の利点は、自然観光地として美しいこと。ここには価値がある。

寺社仏閣の利点を挙げるとすれば、自然が多く、丁寧に掃除されているということです。これにより、静謐な空気を保っている寺社仏閣は多く、そのため、森林浴のようなリフレッシュの効果は期待できます。寺社仏閣とは、願掛けの場所ではなく、自然公園なのです。



説法にも大した価値は無い。子供に道徳を学ばせるには少しは役に立つ。

寺社の神職者によるお説法は、多少は役に立ちますが、しかしほとんどの説法はどこかで聞いたことのある精神道徳ばかりで、大人がわざわざ聞きにいく価値があるとも言えません。

子供たちが寺社の境内で寝泊りして、お説法を受けるような催しが、各地の寺社で夏休みなどに行われていたりしますが、こうしたものは多少意味があると言えるでしょう。宗教に関心を持つことは大切ですし、子供にとっては新鮮な話もあるでしょうし、親が言うよりも第三者が言うほうが心に残りやすいこともあります。


寺社の開運商法はどれも無用で悪徳なものですが、しかしそれらをやめてしまうと寺社に収入がなくなってしまう懸念があるので、このような子供たちの説法宿泊会などを通して、地元の寺社にお金が回るように配慮する取り組みは大切です。寺社が開運商法をするようになったのは、日本人大衆が檀家を担わなくなった(寄付をしなくなった)ことも要因しています。

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