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「すべては愛」なのか?

れな

「あらゆるものが神の愛の現れです。」

「愛は求めるものではなく、そこにあると気づくことが大切です。」

などとスピリチュアルなメディアにはよく書かれています。

これは真実なのでしょうか?


あまり正確とは言えません。


「あらゆるものが神の愛の現れである」というのは、そのとおりです。

人に精神的・霊的な成長を促すため、神はわざと地球に悪人を生まれさせていますし、困難を置いています。

しかし、不誠実な人々の意地悪な行為は、「愛」ではないのです。あれは彼らのエゴであり、あなたを攻撃してでも自分が得をしようと企んでいます。

それを愛であると認識し、責めもせず感謝を告げる、というような所作は、ちょっと間違っています。



父性愛と意地悪は違う。

たとえば、父親がお菓子を欲しがる子供に対して、「わがままを言わないで我慢しなさい」というとき、それは意地悪ではなく、しつけという愛情です。

しかし、子供の友人がおやつを欲しがる子供に対して、「おまえにはやらない。俺だけが食べる」と言うのは、意地悪です。それは、愛ではないのです。その友達に対して、「気づきをくれてありがとう」などと感謝をする必要はありません。

神が、そのような意地悪な子をこの子の町に生まれさせたのは、「神の愛」です。しかし、その意地悪な友達の意地悪な行為は、愛ではないのです。


「愛」というものを語るとき、本来はこうしたことまでしっかり語らなければならないのですが、ほとんどのスピリチュアルブロガーはこんな深い見地はもっていませんし、チャネリングメッセージでもアセンテッドマスターや大天使はこんなに深いことを語りません。

「すべては愛だ」と短絡的に語るとき、それは啓蒙というよりも人々を誤った認識にさせてしまう側面が強いです。今の世の中で言えば、悪人を野放しにするような風潮を、スピリチュアリズムや自己啓発の「すべては愛だ」が生んでしまっています。



神はなぜ、意地悪な人を配備するのか?

神はなぜ、この地球や町の中に意地悪な人を配備するのでしょうか?

彼らの意地悪を野放しにするためでしょうか?

違うのです。

私たちは未熟なうち、意地悪な人々との交流の中から、「優しさと意地悪がある」という二元性を学習します。

「意地悪はよくないものだ」ということを学び、また、多少の意地悪に耐えるタフさを鍛えていきます。


しかし、そうして意地悪とタフさを学習したなら、次は「その意地悪な人々から距離を置く」ということを出来るようにならなければなりません。だからアセンションの条件には、遠く離れた町への環境変化に適応するスキルがあるのです。

「意地悪な人と戦う」ということも大切なレッスンではあるのですが、意地悪な人は負けても屈しないため、戦ってもあまり意味がないのです。交渉したり説得したり、抗戦したりすることも大切なのですが、それが不毛だと気付いたときには、戦うのをやめて離れてくることが大切です。


つまり、意地悪な上司や姑と、ずっと戦い続けなくてよいのです。が、その苦痛から解放されるには「環境を変える」という他の努力が必要になります。会社を辞めて新しい仕事を見つけることは、それはそれで大変ですし、離婚をして一人で生きていくことも、それはそれで大変です。



ナウシカを真似るべきではない。

「あらゆるものが愛の現れである」と知ったとき、それゆえに自分も、すべてに対して愛を注ごうと考える高潔な人がいます。

それは素晴らしいことなのですが、しかしいつもそうしないほうが良いです。

愛で返せば良い結果になる、とは限らないからです。


たとえば、「風の谷のナウシカ」という映画の中でナウシカは、仲間を助けるために二度も敵の前で体を張ろうとします。1度はペジテの兵士に、2度目は王蟲の大群の前に、です。

ペジテの兵士は、女であるナウシカが無防備に体を差し出したことから、銃を撃つことをためらって、やめました。

王蟲たちは、立ちはだかるナウシカを一度は猛烈に突き飛ばしましたが、ナウシカの深い深い慈愛に気づき、彼らの治癒力でナウシカを治しました。

この2件では、ナウシカの深い犠牲は実を結びます。しかし、ナウシカのように無私の境地で身を差し出しても、相手が改心してくれないこともあるのです。

身を差し出しても、多くの場合は無駄死にしてしまうのです。身を差し出しても、悪者だとかんちがいされたまま何千年が過ぎてしまうこともあるのです。


赤色のオーラで100点を目指したいなら、ナウシカのような命を張った犠牲愛は必要です。しかし、別に赤色オーラで100点を目指さなくてもよいのです。



「すべては愛だ」と語ってはいるが・・・

まぁ、「すべては愛だ」と目を輝かせて語るスピリチュアルブロガーのほとんどは、ナウシカのような犠牲愛の境地に達しているわけではありません。自分はナウシカのようにあらゆるものの前に愛で対処したりはしないです。

「すべては愛だ」という言葉の崇高なイメージを、名声を得るために利用しているだけです。

「すべては愛だ」と語るなら、ぜいたくのための商売などせず、ずっとボランティアし続けてください。


愛が云々ということを、スピリチュアリズムや自己啓発の中であまり語らないほうがよいです。それは空虚です。



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